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高椅神社は栃木県小山市にある、日本に於ける料理の祖神 各家庭に於ける台所の神様です。

高椅神社(たかはしじんじゃ)

磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の一人である大彦命の御孫に当たられる御方で、景行天皇が御皇子日本武尊の御東征の戦跡を御巡視なされた際、膳臣として当地までお供をなされたが、老齢のためお許しを得てこの地にとどまり、以後代々豪族としてこの地方を支配した。
 天武天皇の十二年、朝廷より「高橋朝臣」を賜り代々これを襲名した。 
「高椅」の地名もこれよりとったという。
当社の創立は、景行天皇の41年、日本武尊が御東征のおり現在の白旗丘(当社北西方約1km)に御旗を立てられ、國常立尊・天鏡尊・天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
 その後、天武天皇の12年(684)御祭神の後裔高橋朝臣が現在地に神社を建て、前記の三柱の神に氏祖神磐鹿六雁命を合わせ鎮座し、高椅神社と尊称するに至った。
 延喜式の神明帳(927)に搭載されている古社である。
後一條天皇の長元2年(1029)社域に井戸を掘ったところ大きな鯉が出たため奇異であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、誠に霊異なことと思し召され、「日本一社禁鯉宮」の勅願を賜った。
 以来氏子宮は鯉を食うこと及び鯉絵の付いた器物等の使用を禁じられたが、今日までこれを侵す者なく、鯉を食べないことは勿論、五月の鯉のぼりも立てない風習が現存している。
 当社が「鯉の明神さま」と親しまれているのはこの由緒によるもので、境内の南端にある神池には氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されたいる。
結城代々の城主の崇敬殊に厚く政朝、政直、政勝、晴朝、秀康の各城主よりの寄進状、祈願文、修業留等二十余通神納され現存する。
 殊に秀康公が越前福井へ国替えになった後も代々例度の代参を欠かすことなく、明治維新まで続けられた。
 明治5年郷社となり、同10年7月県社となる。
往古より幼児の「虫除け」の神として崇敬され、また境内に「柿木さま」と崇める柿の古木があり、根元の砂が「疣」とりに霊験あり、常にお札参りに納める砂の絶えることがない。
御神徳
御祭神磐鹿六雁命は、景行天皇東国巡視に供奉、上総より海路淡水門を渡られた時、白蛤と堅魚で膾を作って献上したところ、天皇痛く賞味せられ膳臣を賜いしことは日本書紀に見えるところで、日本に於ける料理の始祖神として、また各家庭においては台所の神として、広く調理関係者として崇敬されており、当社はその本宗をなすもので現在御分霊が次のように奉斎されている。
飛騨椅神社 岐阜県下呂温泉合掌村・恵北椅神社 岐阜県中津川市・金椅神社 岐阜市金神社境内
飛騨高山椅神社 高山市日枝神社境内
楼門 明和7年(1770年)再建 栃木県指定文化財
拝殿 千鳥据破風入り母屋造 平成8年改築
本殿 流造三間社 建築年度不明
庖丁塚、 栃木県割烹調理師双葉会建立
御社殿
当地は、結城合戦(1441)の戦場となったため、社殿は大破、古文書、古器宝物等も破損散乱し、創祀当時の仔細は定かでないが、記録によれば建久4年(1193)社殿の破損甚だしく氏子民の力の及ばぬため、源右府公に愁訴、結城朝光が社殿全部を改造せりと。
 また、天正13年(1585)結城晴朝が改築せられた際の修業留の朱印状が現存しており、その後数次にわたって修理を加えつつ現在に至ったものと推考され、特に幣殿、拝殿は文久2年(1862)当時の奉額殿を移築改造したものと伝えられ破損甚だしく修理も限界の状況であったため、平成5年御鎮座1310年並びに平成改元記念事業として氏子崇敬者の奉賛のもと改築事業に着手、平成8年竣工を見たものである。
楼門は、天文24年(1555)結城政勝が改修を行い、その後幾度か補修を加えたが破損し、現在の楼門は水野結城家の寄進により、宝暦四年より明和7年(1770)までの16年の歳月を要して完成したものである。
 大正10年従来の茅葺きを鉄板葺きにすると共に彫刻等の彩色をはじめ建物全体を塗替えるなどの大修理を行い、次いで昭和58年現在の銅板葺きとした。昭和42年小山市指定文化財に指定され、次いで平成7年8月栃木県指定文化財の指定を受ける。
楼門構造
 桁行6・30m、梁間五・15m、棟高12・40m、
 二層楼門、前後唐破風、左右千鳥破風、楼上高欄付、
 随所に彫刻絵画を装飾す、前面に左右大臣像を安置す。

    

鎮座:栃木県小山市大字高椅786-1
○JR宇都宮線小山駅より約12km
○JR水戸線結城駅より約5km
境内:16,500平方米
社紋:57桐

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